筆者の一日は、朝起きてすぐ電子メールを読むことから始まります。ダイレクトメールのような情報は新聞の見出し程度にちらっと見ればすみますが、仲間うちの連絡は読まなくてはならない。また返事を書くのがなかなか大変。四つ、五つ書くだけで1日暮れてしまいそうです。なしのつぶてではメールをくれた人に対して申し訳ないという思いつつ不義理することもあります。メールを毎日何十通もやりとりしている人はどうやっているのでしょうか。
ある高校生のアンケート調査では「友だちづきあいで大切なこと」として80%もの生徒が「電話をしたりポケベルにメッセージを入れたり、絶えず連絡を取り合うこと」としています[1]。一日30通くらいのメッセージが入り、その返事を出すにかなりの時間がかかる、といいながらも友達が大勢いることが心の支えになっているようです。しかしこれでは勉強する時間も睡眠時間さえ満足にとれないでしょう。
これからの情報化社会のキーワードは「双方向」だといわれます。これまでのようにテレビ、新聞、雑誌などマスコミから一方的に送られてくる情報をただ受信するだけでなく、誰もが自らの意見や情報を世界に向けて発信するという時代がくるというのです。テレビも双方向となり、見たい番組を選択するだけでなく、番組に参加することも可能になるそうです。今でも電子会議室、チャット、ホームページを通して自由自在にコミュニケーションを行い、、世界に向けて発信できる人がいます。しかしこのような日本人は例外的で、日本人の多くは外国人に比べて発信が得意でありません。メールやホームページをよく利用する人たちでも、読むだけのメンバー(リード・オンリー・メンバー)が大半を占めると思われます。
3年に1回の電子回路世界大会(ECWC8)がこの9月に日本で開催されます。海外から大勢の人が来日するでしょう。国際会議に参加して思うのは、日本人の発表は内容(特に技術)、発表スタイルとも他国にひけをとらない立派なものなのに、ディスカッションやパーティになるとおとなしくなり、「双方向」コミュニケーションが活発に行われているようにはみえません。筆者も日本人の特徴とされる「3S(silent, smiley, sleepy)」でいつも情けない思いをします。次の世代には引け目を感じさせずに堂々と議論をたたかわせ、自由にコミュニケーションのできる人が大勢育ってほしいと願っています。
日本人の口べたは海外でも定評があります。NYのあるアウトレット(ブランド品安売り店)が日本人の消費行動を研究しているそうです。「どうして日本人はブランド商品が好きか。店員に話しかけられるのを嫌がるのはなぜ?」[2]。日本人は「小人数の会議であれば積極的に発言したり、また酒が入ると本音が出たりする。しかし、特に大きな集まりなどで意見を率直に伝える能力に欠けている...」と的確に指摘しながら、「主張ベタも文化のうち」となぐさめられるのはつらいことです[3]。
日本人の自己主張が弱いのは日本の文化に根ざしているのでしょう。かつて日本は均質で変化の少ない閉じた社会でした。若者は嫁さんの世話から、多少の悪い遊びの仕方まで、親や先輩がしかるべく面倒をみてくれ、そうしてそれぞれの社会の常識を身につけた大人になっていきました。旧制の中学や高校、軍隊や職場もそのような教育の場であったのです。今でも旧制高校や海軍兵学校を卒業した人たちの間の強いきずなに驚かされます。そのような場では、公の場で皆と違った主張や説得をすることは必要がなく、かえってそういう言動ははみ出し者として社会から放り出される危険がありました。その結果、目立たなくする、人と違ったことは言わない引っ込み思案の日本人を作ってきたのでしょう。話さない、書かないスタイルを続けるうちに、自分の考えを持っていても発表のためそれを整理するという能力が衰えていったのではないでしょうか。「六十になっていよいよ明らかになったが、自分の考えを言ってみても、私はつまらないのである。それより、人の話を聴く方が楽しい。出会っていろんな人の話を聴くと、実に人さまざまであり、ああ、実に人間社会は不思議に豊富なものである」[4]という、達観した見方もあり、筆者も個人的にはそれに共感するのですが、グローバル化した競争社会では、背伸びしてでも主張できるコミュニケーションの力を付けないと、口の達者な外国勢に押しまくられそうな気がするのです。
引っ込み思案は古い日本人だけかと思ったら、現代の若い世代、子供の世界にもみられ、最近の携帯電話などの普及でかえってその傾向が進んでいるといわれます。「大量に流布された商品や知識を識別し、共通の話題となるようにうまく利用できる能力が、子供たちの間で高く評価される。みんなの話題にうまく乗り、いっしょに過ごせるかどうかは、話題を識別し、かぎわける能力にかかっている。そして「進んでいる」「遅れている」「いまいち」という形で相互に評価され、子供や若者の間に序列ができあがってくる。...子供たちが自分の個性や感性を主張するよりも、むしろそれを隠そうと振る舞うのも無理はない。「変わっている」「外れている」と評価されることくらい、子供たちにとって決定的なマイナスイメージはない」[5]。コンピュータ・ネットの電子会議室での発言についても、「自分の意見が多数派意見であると認知すれば発言するが、少数派と認知すれば孤立することへの不安から意見表明を控える傾向が見られた」[6]といわれます。
そもそも、対話や話し合いというのは容易なことではありません。「世の中には聞きたくもない話が山ほどある。皮肉なことに、相手が熱心に語りかけてくる話ほど、敬遠すべき中身であるという、熱意と魅力の逆比例関係がほぼ成り立つ。親の説教、先輩の苦労話、配偶者の愚痴、酔った上司が繰り返す失敗談に見せかけた自慢話...。聞く耳を持つということは、かなり疲れることでもある。インターネットで瞬時に世界の情報にアクセスできる今、こうしたやっかいな話は避けて、耳に心地よい話だけを選んで聞く傾向が出てくるのは、至極当然といえる」[7]。
対話は一方的にしゃべるだけでは成り立ちません。相手に聞く耳がなければどうにもならない。相手が話を受け止めてくれ、ある程度議論がかみ合ってこそ対話といえます。共感してくれ、多少のズレも理解してくれる相手であれば最高です。こんな話し相手を、ネット上で顔の見えない無数の人たちの中から見つけだすのは容易なことではありません。それを期待できるのは気心の知れた狭い仲間内だけのことでしょう。こうして、世界につながる文明の利器を使いながら「半径1メートルとか3メートルの世界」に閉じこもる若者が多いといわれます。
山崎正和さんは家族や仲間内だけのコミュニケーションを「表現への努力なしにお互いを自然に了解することができる肌を接した密着状態のコミュニケーション」とし、人間は同時に「活字文化と映像マスコミがつくり上げる、いわば無限大の空間の中に生きている」といいます[8]。そして巨大なマスコミから情報が一方的に注ぎ込まれるため、自分自身の表現力についてはあきらめや無気力を生じさせかねないとしています。つまり「表現努力の要らない世界」と「努力してもとどかない世界」の両方に住んでいるというのです。山崎さんは現代社会において軽視されがちな「中間距離の人間関係」の訓練が大切だと強調しています。そこは肉声が届く、達成目標が見える大きさの世界です。山崎さんはその訓練をある高校で演劇教育という形で実践してきました。生徒を前に演劇論を話した後に、当番の生徒に今聴いたばかりの講義を要約し、何を習って何が心に残ったかを明晰な言葉で報告させるというのです。きびしい訓練ですが、体を動かし、腹の底から声を出す、他人と感情の表現を交換することにより、生徒たちは一様に自分が変わり、自分に自信を持つようになったといいます。このような訓練についてくる生徒もえらいと思いますが。
体験があれば、それを情報のフィルターにできますが、体験のない子はテレビの言うとおりインプットするしかありません。情報が過剰にあっても、体験が乏しいと、それを自分に取り込むか排除するか、選択する能力そのものがなくなるのです[9]。コミュニケーションでは発信側、受信側双方の体験に共通する部分があってこそ共感が得られるものでしょう。コミュニケーションを実り多いものにするためには、お互いに重なる体験を増やすことがまず必要です。芝居は役になりきってしゃべり、体を動かすことにより疑似体験ができるといわれます。しかし体験を重ね、勇気を養わせるには「可愛い子には旅をさせよ」といわれるように一人旅が一番よいと思います。片言の外国語半分、身振り半分で世界を旅することは不安、心配もありながらおもしろく、本やテレビやインターネットでは得られない実体験を積むことができるでしょう。江戸時代、江戸から出たことのなかったある学者は、長崎を往復しただけで人間の幅が広がったといわれます。
身軽にアフリカの奥地にまで出かけたり、難民の救助に向かう若者が増えています。このようにして育った体験豊富で物怖じしない人たちがインターネットを一つの道具として利用し、世界と交信するとき真の双方向コミュニケーションが生まれることでしょう。