東海村の臨界事故から2ヶ月ほどが経ちました。事故の当初は毎日のように、JCOのずさんな工場管理、安全教育や科学技術庁の監督不行届、原子力行政の密室性がやり玉に挙げられましたが、その後すっかり静かになり、東海村、JCOや科学技術庁だけの問題として忘れ去られようとしています。雑誌に出た事故の記事も経過のレポートや関係者の責任を問うものが多く、事故の背景に関するつっこんだ議論はあまりみかけません。
しかし筆者は今回の事故で表面化した問題は原子力の世界だけでなく、日本の社会のどこにでもある問題であり、このような大事故がいつ、どこで起こってもおかしくないと思うのです。原子力以外の人でも事故のニュースをきいて、人ごととは思えず冷や汗をかいた人は少なくないと思います。プリント板の世界でも、マニュアルの整備や実際の作業で建て前通りにいかないことは多いとある人が述懐していました。ルールはずれを「あってはならないこと」として覆いかくす、あるいは当事者をたたくだけでは事態は改善されません。ある日、別の場所で似たような事故が発生し、またモグラたたきを繰り返すことになるでしょう。以下多少タブーにふれるかもしれませんが、今回の事故を例に「マニュアル」や教育、学習について考えてみたいと思います。
まず裏マニュアルについて。裏マニュアルは違法でありJCOも弁解の余地はありません。しかしJCOの設備はできてから15年ほども経っています。設備も技術もかなり古くなっているはずで、プリント板ならほとんど廃棄に近い設備です。当時の設計者や技術者も多分いなくなっているでしょう。この仕事を引き継いだ人たちは、不便な作業を改善し、生産効率あげることだけを考えてステンレスバケツ法を考案したのでしょう。採算重視や効率主義に走ったという批判が出ていますが、危険性など全くあたまになかったというのが本当のところと思いす。かくして最初の設備がなぜ不便な造りに設計され、不便な作業マニュアルになっているかの技術的な「理由」は受け継がれないまま失われていきました。設備や作業方法の変更についてはあらためて審査を受ける規則にはなっていますが、これがまた一苦労。相手はお役所で、手続きに何ヶ月(ひょっとして何年)もかかってしまいます。JCOの場合、滅多に使わない設備でこんなことはやっておれない、となったのでしょう。社内の安全審査もとばされたといわれます。プロセスは変わっていないから安全審査の対象にはならないと考えたかもしれません。
軍用、宇宙向けなど信頼性を要求されるプリント板の品質認定では、製造設備や作業手順はともに認定の条件になります。一つでも変更すると認定のやり直しです。製品の品質が設備や工程条件の変更で変わる可能性があるからです。しかし製品寿命は10年はごく普通、20年も珍しくありません。この間、一切設備や作業手順を変更しないのでは、年々急速に進歩する設備や技術が全くその製品の製造に活かせないことになります。やむを得ず古い設備や古い作業方法を残して生産を続けている企業もありますし、ひそかに進んだ設備や技術を利用しているところもあるかもしれません。
そもそも日本の社会はチェック・アンド・バランス機能が弱いことが問題といわれます。日本では金融、厚生、警察、建設、どこを見てもムラ社会で、チェック部門があるにはあってもみな内輪で、ムラの中ではどこでも現場が強くチェック部門は立場が弱かったといえるでしょう。その結果「やってられない」として規則を無視したり、「やむを得ない」として見過ごしたりする「融通性」をよしとする傾向があったと思います。しかしそれも変わりはじめています。ISO9000システムで文書による指示や記録が要求され、市民運動で情報開示をせまられたり、インターネットによる内部告発が増えたりしますと、いままでのように情報かくしや、かばい合いで組織を守ることはできなくなります。今後は徐々にながらチェック部門が力を付け、ときに仲間内にはつ
らくなってもルールにのっとったチェックが行われるように変わっていくでしょう。またお役所仕事の迅速化も否応なしにせまられてくるでしょう。
今回の事故でもう一つ気になるのは作業者の教育です。JCOの所長は「臨界という概念はわかりにくく、正しく認識するには高度な知識が必要であり、作業員には理解されにくい。手順を守るように教育することで間接的に臨界教育を行った」「絶対にやってはいけないことは何か、ということの徹底がなされていなかった」と語っています[1]。まるで「知らしむべからず。依らしむべし」という江戸時代の為政者の言葉とそっくりです。全く作業者を馬鹿にしています。ルールの意味を理解しないでルールが守れるものか。大体「マニュアル」は「ああしろ、こうしてはいけない」を並べたもので、およそおもしろくないものです。パソコンを購入してまずマニュアルを読むのは中高年だけ、そして中高年はマニュアルを読んで理解できず、しばしば挫折するのです。今やマニュアルを忠実に守るのは「マニュアル人間」として馬鹿にされる時代です。「今の若者はマニュアルに頼る人間を『よりどころとなる何かがないと行動できない』『創造性に欠ける』とみなす」「マニュアルに縛られた対応より、その場に応じて機転の利いた交流を楽しみたがる」[2]。必要なのは物事の「知識」「理解」であって、「マニュアル」ではありません。マニュアルは修得した後の「こころ覚え」であって、技術習得に用いるテキストにはならないと思います。マニュアルで手順だけ与えて、守らない方が悪いというのは時代錯誤、些末な学校の校則と同じです。臨界事故について静岡理工科大学の志村さんは対談で「マニュアルだけ与えられて、その背景となる科学についても技術についても教育を受けていなかったのではないか」また「文明にしろ、技術にしろ、進歩すればするほど、より細分化され、その内容も専門的で高度なものになる。必然的に、全体を把握するのが困難になる。そこでその内容が完全に理解できなくとも、ある技術を利用できるようにマニュアルの必要性が生じてくる。文明の「運命」だと思っている。しかしそのマニュアルの「背景」を知っておくのは、原子力や医療技術を利用するときの作業者の義務である」といっています[3]。また東大の飯塚さんは「今重要なのは現場の従業員を『一流の技術者』に育てることだ」といっています[4]。さて、どうすれば人は育つのでしょうか。千葉大学の稲垣さんは「上から知識を『伝達する』学校方式ではかえって学び手の意欲、能動性を衰えさせる。学び手の学習によってこそ『理解』が進む。また意味を理解するというのは、新しく与えられた情報と、今までもっていた知識(既有知識)との間に整合的な関係を見つけること、「なるほど」「たしかにそうだ」と納得することである」と強調しています[5]。そして「理解が進む」ということは「好きになること」につながります。筆者はプリント板についても現場の人たちがプリント板のエキスパートになり、そして好きになってほしいとねがっています。最後に哲学者、西田幾多郎の言葉をあげておきます。「物を知るにはこれを愛せねばならぬ。物を愛するにはこれを知らねばならぬ」