神奈川、新潟とつづく県警の不祥事や不手際で警察に対する信頼が揺らいでいます。女性監禁事件の犯人が発見されたその日に温泉マージャンということで感情的な反発が強いのですが、新聞や野党がここぞとばかりに警察庁長官、国家公安委員長、さらに任命した首相まで責任をとれと言い立てるのには白けます。誰もが神奈川、新潟だけに、あるいは警察だけに限られる話でないことを知っているからです。小渕首相が「運が悪かった」といったのは正直な感想で筆者もそう思います。辞めた人や警察内部でも、慣例通りあるいは先輩のやりかたをまねてやっただけという思いがあるでしょう。
いまキャリア制度に批判が集まっています。キャリア制度は組織の中枢をになう幹部を養成するためのエリートコースといわれます。20代の警察署長や税務署長も現場を体験させるのが目的とされますが、署員にとっては「上命下服」を要求される組織のボスになるのです。特権的な身分にしか見えないでしょう。TVでは「神様あるいは殿様です」と自嘲気味にいう人もいました。試験に合格しただけじゃないか、現場を知らないのはともかく人間的にも尊敬できないのにと、くやしい思いをする人も多いでしょう。キャリアの人にその自覚があればまだしも、当然のこととしていばったり、立場を利用したりするのでひんしゅくを買うのです。「また若い"えらいさん"の訓話を聞かされた。ばかばかしくてやってられない」といって警察を辞めた人も知っています。
しかし筆者は日本の警察は全体としては世界でももっとも優秀であり、モラルも高いと信じています。筆者は警察機構の末端で営々と仕事にはげむ、律儀できまじめ、そして人のよい、いまでは「化石のような」警察の人を何人も知っています。中には悪い警官もいます。マスコミは「あおり」が商売ですからこれが全部であるかのように書き立てますが、程度の悪いのはどの世界にもいます。きまじめな大多数の警察官は最近の警察報道の過熱ぶりにうんざりし、元気が失われると嘆いています。悪い警官は法に照らして罰すればよろしい。しかし大多数のまじめな警察官を週刊誌などになぶられるままにしてはなりません(平均的にみれば週刊誌の方が程度は悪いと筆者は思う)。中坊公平さんがいっています「警察の人には忘れてほしくないことがある。本当は国民は、警察のことを信頼したいんだ。今は、可愛さ余って憎さ百倍のような面がある。国民は、頼りがいのある警察になってほしいと願っている。全国の警察官23万人が全員悪いわけではなく、現場の第一線では優秀でまじめにやっている人がたくさんいる。そこをよりどころにすべきだ。警察は自信を持って欲しい」[1]。
警察が信頼を損なった一番の原因は「うその発表」です。県警の部長や課長が公式発表した内容がまったく事実に反するということではなにを信じていいのかわかりません。警察のずさんな捜査やミスをきびしく批判する声もありますが、何事も実行するのはいうほどやさしくありません。筆者には警察の「どじ」を声高に責める勇気はありません。まじめに再発防止に取り組んでもらうことを期待するだけです。これに対し、事実を隠す、ねつ造する、ばれると釈明するという繰り返しは警察の信用をそこねる最大のものです。
話はかわって英核燃料会社のMOX燃料検査データねつ造事件。この工場では検査データのねつ造が「組織的、意図的に」行われていた、また核燃料のなかにねじやコンクリート片を「意識的に、故意に」混入させていたということです[2]。「前代未聞の事態」とおどろいた関西電力やドイツの電力会社ではこれら燃料の使用停止に追い込まれました。ここでも「意図的に、故意に行われた」ということが怖いのです。
プリント板の品質にとって信頼性は非常に重要な要素で、各社とも製品の「高信頼性」をうたっています(残念ながらその高信頼性とは何を指し、何によって保証されているかは明確でありません)。「信頼性」はこのように非常に抽象的な概念で、解釈に幅があります。そこで、より根拠のある信頼性の定義、評価および高信頼性設計を目指す信頼性工学がアポロ計画などの宇宙開発によって急速に進歩しました。電子機器でも平均寿命(MTTF)、平均故障間隔(MTBF)、故障率(単位FIT。1 FITは10億時間に1回起こる程度の故障率)などという信頼性用語が使われますが、これらはすべて信頼性を「確率」の概念を用いて数字で表現したものです。このように定義された信頼性を「信頼度」または「リライアビリティ」といいます。
このように信頼度は厳密に定義され、具体的な数字で示されるので、これに基づいて設計、製造されたロケットは所定の信頼性を発揮するはずです。しかしロケットの打ち上げは失敗しました。なぜか。それは信頼性工学のよって立つ「前提」がくずれているからです。いくら精緻な理論を組み立て、計算を行っても、理論の前提がくずれれば計算結果はまるきり意味がなくなります。その「前提」とは何か。それは材料の品質、製造プロセスの条件、作業の手順がすべて「管理状態にある」という前提です。使う材料も製造プロセスも日々変動します。作業の正確さも人により幅があります。その結果、製品の品質は一定にはなりません。ただ、これらの変動がある幅(過去の実績から想定される範囲)から逸脱しなければ、もたらされる信頼度の変動幅も計算することができます。このようにばらつきながらも安定している状態を「管理状態」というのです。
しかし使用する原料を間違えたり、装置が故障したり、作業者がうっかり作業を間違えたりすると、とんでもない不良や大事故を引き起こします。このような事故の発生については信頼性工学も無力です。それぞれの設備のメンテナンス、作業者の訓練、教育などにより、細心の注意を払って突発異常を防ぐしか方法がありません。一番たちの悪いのが上に挙げたような「情報のウソ、ねつ造」「故意の誤作業」です。これから正しい予測をすることは不可能です。社会の安定をゆるがす反社会的な行動といわなければなりません。社会をゆるがすという点で放火や爆弾テロに類するといえばいいすぎでしょうか。「情報隠し」の方がまだましです。
筆者のいいたいのは製品やシステムの「信頼度」は信頼性工学の及ばない、「あり得ないミス」や「意識的なウソ」によって大きく左右される(ひょっとしてそれの方が大きい?)ということです。警察の上の人と下の人、市民と警察、教師と生徒、商品の売り手と買い手、政治家と国民、日本人と外国人、それぞれの間に信頼(お互いに相手を信頼するということ)がなければ警察も、学校も、国際関係も安定し、よくなるわけがないということです。
このようにいいますと、それは甘い、おめでたい、世の中はきびしく競争は苛烈、文化が違えば理解不能、信頼すると裏切られる、など異論がたくさん出るでしょう。その一方に日本はお互いの信頼に基礎を置いた安心社会であるという日本人の常識があります。しかし北大の山岸俊夫さんによれば日本はアメリカに比べ安心社会であったかもしれないが、アメリカより信頼性の高い社会とはいえないといっています[3]。日本の安全は「ムラのおきて」によって守られた安心だというのです。山岸さんは、他人の目のないところで人がどのように行動するかを調べる実験を国内外で数多く行って、このことを確認しています。また、以下は前駐米大使、斉藤邦彦さんの文章の一部です[4]。「...あえて一つだけ米国人の顕著な特性を挙げるとすれば「心の広さ」ということである。...CNNの人気キャスターの夫婦の家に夕食に招かれた。そこで、娘ですと言って明らかに東洋系の顔をした三歳くらいの女の子を紹介された。聞けば、最近養子にした韓国の子供であるとのことであった。私が驚いたのは、食事の際の話の中で、彼ら夫婦には自分たちの子供がすでに二人いるということが分かったときである。自分の子供がいるのに、その上に養子をとる、それも外国から、ということは、私には思いつきもしなかったことである...」。
山岸さんは、被験者を「ほとんどの人は正直である。私は人を信頼するほうである。ほとんどの人は基本的に善良でしんせつである。...」という設問への回答から高信頼者(楽観主義者)と低信頼者(悲観主義者)を分けてテストした結果、楽観主義者の方が人を見る目がたしかで、疑い深い人よりだまされることが少ないということを実証的に確かめました。なぜこのような結果になるのか。信頼しやすい人の方が世間が広く、経験の積み重ね、成功体験が豊富なために、見る目が養われてくるのだろうと山岸さんは推測しています。松下幸之助さんが人を採用するとき「あなたはこれまでついていますか」と質問し、ついているという人を採用したということですが、さすが経営の神様の知恵だと思います。情報化社会がすすみ、閉鎖的な組織の安心を「ムラのおきて」で守ることはもはやできなくなりました。ボーダーレスの経済とともにボーダーレスの社会がやってきます。自動車だけでなくプリント板でも海外で仕事をしたり、外国人のボスにも仕えなければならない時代になるでしょう。日本人も自分の組織にこもらず、違った世界に出て、楽観主義でありながら、たしかな見る目を養っていきたいものです。