最近の新聞でパソコン、IT、バイオ、環境という文字を見ない日はありません。そして耳慣れない新語があふれています。こんな難しい言葉の意味を専門外の人にわかるのだろうかと筆者はかねて疑問に思っています。しかし若い人は結構よく知っていて、自由にあやつっています。いつどうやって仕入れるのでしょうか。幼児が大人の話を聞いていて、難しい言葉を覚え、結構上手に使ってみせるのに似ているのかもしれません。ひょっとして親に似ぬ才能があるのでは、とよろこんでみたが幼児には意味が全く分かっていなかったという経験をした人も多いでしょう。それにしても幼児の言語吸収力は驚異的です。耳で聞いて、そのまま真似る、相手の反応をみながら、TPOを覚え、言葉の意味を理解していく。外国語の学習にはこのようなステップが一番有効といわれます。中高年はこれがにがてで、まず意味から理解しようとする傾向があります。
若者はこのように難しい言葉をあやつる一方で、若者の理科離れ、基礎学力低下が今大きな問題として取り上げられています。日本の将来が危ういと心配されていますが、理科離れは先進国に共通する最近の傾向のようです。ところで、プリント板業界のある友人と「基礎」と「応用」のどっちが大事かということで議論したことがあります。私は基礎が大事、友人は応用が第一という立場です。しかしお互い、応用はいらない、基礎はいらないということではないので、問題は基礎と応用のどちらから始めてどう両立させるかです。日本は応用、改良には強いが基礎に弱い、これからの国際競争に勝つためには基礎に力を入れなければ、といわれます。しかし基礎が、基礎がとあまりに強調する風潮に異議をとなえ、まず先端をかじれという人がいます。
「基礎は基礎にすぎない。金田正一はロッテ監督のとき、野球選手の命は足腰だ、だから走れと檄をとばし、そして優勝しましたが、その後、走らない奴は使わない、という方針で臨みました。しかし、足腰は土台であっても、野球能力そのものではない。走ることを第一にしたロッテは、へたくそな野球で凋落の一途をたどりました。
基礎や初歩は、どんなに大切でも、根の部分であり、花も実もありません。美しくなく、おいしくないのです。面白くないのです。野球選手は、野球をするために、それと、野球をすることが好きだから、プロの道を選んだのです。走るためではありません。足腰はすべてのスポーツの基礎です。でも、走ることは、辛いだけでなく、楽しくないのです。つまるところ、基礎、初歩が重要だからといって、そればかりやっていると、楽しくないのです。心踊りするようなものがなければ、万事進歩しません[1]」。
鷲田先生は、まず面白いところから囓れ、と強調しています。実際、何でも基礎からというやり方ではやりたいところまでたどり着けません。中高年がパソコンを始めるときマニュアルの1ページから読み始めて挫折するように。ただし、鷲田先生は基礎は必要になったときに勉強すればいいといいますが、本当に基礎的な「読み、書き、そろばん」の力は小さい頃に身につけておかなければ社会の中で生きていくこともできません。問題は現代人にはどこまでの「読み、書き、そろばん」が最低要求されるかということです。小学校で英語やコンピュータを教える必要があるとは思えません。それは好きな子が課外でやればよい。自分の子どもに教えなければならないのは動物でも人間でも一人で生きていける力であり、日本人にとって欠かすことができないのは日本語の読み書きと算数です。日本では戦前からほとんどの家で新聞を取っていて、小学校しか出ていない人たち(国民の大半)もたいてい新聞を読みました。先日亡くなったみやこ蝶々さんは6才から旅役者の座長をつとめ、ろくに学校にも行けませんでした。夫で漫才の相棒であった南都雄二という名前は「何という字?」と蝶々さんが根ほり葉ほり訊いたことから付けたのだそうです。今、大学を出ても本を読まない、新聞も読まないという若者が多いと聞きます。情報はマンガ、テレビ、インターネットに必要な情報はなんでもあるから新聞を読まなくても間に合うという人もいますが、そうは思えません。これらのメディアにあふれる情報から必要なものだけを選び出し、不要な情報、有害な情報は捨てるという力がないと情報におぼれます。このような選別する力はインターネットをサーフィンするだけで身に付けることは難しい。やはり活字から、あるいは人と人とのコミュニケーションから自分なりに体得するしかないのでしょう。「米国でドット・コム・カンパニーが誰にでも知られるブランドにするためには、ネット広告では無理で、テレビや新聞などの旧来のメディアに高い費用を払って広告を出さなければならない[2]」といわれるのと似ています。
さて、技術者は若い人も年輩の人もそれぞれ学校で基礎と応用の教育を受けてきています。そして卒業から何十年たっても専攻は何ですかと訊かれたり、化学出身です、電気ですと答えたりします。しかしこれにどれほどの意味があるのでしょうか。図はある電気関係の同窓会で話された「技術者が時代遅れになるまでの年数」を借用したものです[3]。このグラフは、例えば1970年に大学を卒業した人が学んだ知識は5年ほどで50%は時代遅れに、13年もすると100%時代遅れになる、応用できる知識はゼロになることを意味しています。このグラフによれば(技術進歩が速くなったために)1990年に卒業した人の学んだ知識は7年で役に立たなくなるというのです。きびしい数字ですが、技術者の皆さんなら少なくとも定性的には納得していただけると思います。このグラフをプリント板関係で今も活躍する友人に見せましたら、面白いグラフだけど化学分野では技術の寿命はもう少し長いのではないかということでした。筆者は、大学で学ぶ知識は、今より昔の方が、また電気より化学の方がより基礎的であった(応用知識が少なかった)ために、より長持ちするのではないかと考えています。基礎的な知識が応用的な知識より長持ちするのは確かだと思います。注意しなければならないのは、このグラフは卒業してから新しい勉強をしなかった場合についての話だということ。どの学科を卒業したかということは5年もすれば関係なくなる、最近何を学んでいるかが勝負だということです。そしてまた、応用の可能性を広げるためにはより深い基礎知識の上に立つことが必要だと筆者は考えます。
以下は中坊さんの言葉です。「...作物は手間をかければ、かけただけの成果を返してくれる。種芋を植えるのに、植える深さまで掘って芋を置くか、それよりさらに深く掘ってから少し埋め戻し、その軟らかな土の上に芋を置くか。最後に土をかぶせた畑の表面に違いはない。しかし収穫を迎えた時、その差は確実に現れる。「スキを深く入れろ」は今、私の口癖になっている[4]」。