晴れた日にひつじに見える雲がぽっかり浮かんでいる。雲はくっきりした形をほとんど変えずにゆっくり動いていく。こんな空を見上げながら、どうして輪郭がこんなにはっきりしているのか、形がくずれないのかと不思議に思います。雲はこまかい水滴が空気中に浮かんでいるものです。10ミクロンほどの小さい水滴がお互い1ミリ以上も離れてばらばらに浮かんでいるのですから、水滴は勝手な方向に自由に移動することができます。そして雲はあっという間に空全体に広がって雲の輪郭は消えてしまいそうに思えます。雲散霧消という言葉もあります。
テレビの気象情報ではよく「前線」という言葉が出てきます。密度の大きい(冷たい)気団と、密度の小さい(暖かい)気団との境界面を前線面とよび、この面と地表面とが交わるところを前線といいます。不思議なのは、なぜ冷たい気団と暖かい気団がすぐに混じりあわず、その間に境界面ができ、何十日も消えないのかということです。
実際には冷たい気団と暖かい気団の境目に幾何学的な面があるのではなく、幅数キロメートルの転移層があり、この中では冷たい空気、暖かい空気がはげしくまじりあっているのですが。雲の場合も、遠目には形がくっきりしていても、飛行機から見ると雲は表面で大きく渦巻いています。しかし遠くから見ると雲の形も前線もおどろくほど変化しない。
混ざるというのは想像するほど簡単ではないということです。「溶解」を辞書で引くと、気体、液体、固体である物質(溶質)が、ほかの液体や固体と混合して均一な相の混合物、すなわち溶液をつくること、とあります。「溶ける」も混合ですが、均一な相になるというところが「混ざる」と違うのでしょう。
転校生は、はやく新しいクラスになじみたい、クラスの子と仲良くなりたいと願います。はじめての土地に引っ越してきた人は、近所の人との付き合いに緊張します。仲良くなりたい、新しい環境に「とけ込みたい」と願いながら。しかし、いじめがあったり、無視されたりして「とけ込む」ことはなかなかできません。「溶ける」は「混ざる」よりむつかしいのです。秋、コスモスが咲き乱れる原っぱ。赤、白、黄色の花が入り乱れていますが、花の色はあざやかな赤、白、黄色ばかりで中間色がない。遺伝子で決まるのだから当たり前と理屈ではわかりながら、そのコントラストがあまりに鮮やかで、やっぱり不思議です。
筆者は思うのです。気象や生物の世界で「混ざる」のは簡単でない。しかしこれは自然科学に限ったことではなく人間社会でも同じでないか。まして「とけ込む」などということはかなわぬ夢なのではなかろうか。そして、そう割り切った方がお互い生きやすく、共存しやすいのではないだろうか、と。
生物の種でも人間社会でも大事なのは多様な種が共存することです。劣勢とされる種でも駆逐し、滅亡させることは、長期的に見て生物の世界や人間社会を衰退に導くでしょう。これからは多様化の時代といわれます。しかし人も社会ももともと多様なのです。人の能力には生まれつき大きな幅があり、性格や好みもいろいろです。家庭や社会もそれぞれ歴史を背負っていて、すでに十分に多様です。多様化の時代とは、多様になる時代ではなく、多様な人がそれぞれのスタイルで生きていける社会であるべきだと思います。これまで日本でそれを阻んできたのは、社会の平等、均質を「良し」とし、パターンから外れた個性や、生活スタイルを否定し、拒絶反応を示す集団の空気です。
拒絶反応は臓器移植に出てくる言葉で、拒否反応ともいわれます。移植時に移植片の抗原情報が宿主のリンパ球に伝えられると、抗原量に応じてキラー細胞が作られて移植片を破壊する。これが拒絶反応で、宿主と移植片間の「共有抗原」が少ないほど強いといわれます。お互い共有するものが少ないと相手を「異物」として一層はげしく排除しようとするのです。拒絶反応は生体システムを安定させるための大切な機構ですが、人間の集団や社会にも全く同じ機構が働いているようにみえます。孤立した、安定な集団ほど拒絶反応が強いのです。親子何代も通ったような学校や、歴史の古い集落では、転校してきた子や、都会から移り住んだ人はいつまでたっても「よその人」です。集団に新しく入ってきた人が「溶け込みたい」と望んでもなかなか受け入れてもらえません。集団のこのような態度は、しばしば閉鎖的だ、冷たいと非難されます。しかしこれは意地悪というより、集団の生理的な拒絶反応が働いているのです。いい、悪いではなく、多分「自分たちとは違う」「気になる」というのが表に出るのでしょう。
日本はこれまで比較的均質で貧富も少ない国でした。これ見よがしの金持ちもいないし、乞食もあまり見かけません。大通りから一歩入った路地でもそこそこに清潔で、安心して歩けます。孫正義は大金持ちということですが、ベンチャーの雄という感じで、金持ち面をしません(貧の方ではホームレスが気になりますが)。このような日本で、ささいな格差、不平等が気になり、「許せない」と思ってしまうのは、やむを得ないことかもしれません。しかしこのあまりに繊細な感覚、敏感さではグローバリゼーションの時代を生き抜けないのではないかと心配になります。
CPCAツアーでプリント板工場を見学しました。整然とした、ちり一つない新鋭工場で、見学者からため息がもれました。しかし門を一歩出ると、ドブ川が流れ、わきにわずかの商品を並べた軒の低い店がいくつか。ビリヤードでひまをつぶす人。クワをかついで自転車に乗る人、家財を積んでリヤカーを引く人。ほこりっぽい道路の分離帯に場違いな翼をつけた馬の大きなブロンズ像。レンガ造りの建物に大勢群がって建物を解体する労働者(レンガに付着している漆喰を1つ1つていねいにはがしている)。
深センで宿泊した一流ホテルの前では、ゴミ箱を倒し、しゃがんで残飯を口に入れる女を見ました。片方の手で赤ん坊を抱えながら。両足のない物乞いが何人も数メートルの間をおいて道に並ぶ。目の前で掲示板の新聞をはがして持ち去る男。めざましく発展する深センの光と影を見る思いがしました。中国では先端と混沌が同居している、それが中国の強みでないか、とある人が言っていました。
日本はこれから、流儀の異なるさまざまな国々や社会と、物やお金が行き来するだけでなく、ひとの往来も増え、相互に人の移住も増えてくるでしょう。そのとき今の日本人のデリケートな感覚のままでは、ストレスが嵩じてしまいそうです。日本人はもう少し鈍感になったほうがよさそうです。お互いとけ込む(同化する)ことはできないし、溶けてなくなる(一方的に消える)こともない。混ざるだけでも難しいのだと腹をくくった上で、共存できるよう努力するしかないのではないでしょうか。
具体的にはどうするか。臓器移植の例でいえば拒絶反応を減らすため「共有抗原」を増やすことです。相手の「背景」「人間」を理解するということに相当するでしょうか。仕事の議論だけでは相手を理解するまでには到りません。インタビューアーは相手についてかなりの勉強をしてからインタビューに臨みます。私たちも、仕事の中身は当然として、相手や、相手の国についての理解をもっと深めることが大切になってくるのでしょう。
CPCAで会った中国の女性は日本のことをよく知っているのにおどろきました。「源氏物語を(中文で)読んだ」「小林光一を知っているか」「鈴木保奈美は」「山口百恵は」と。筆者は残念ながら源氏物語は読んだことがないし、鈴木保奈美は知りませんでした。読者の皆さんはいかがですか。