JPCA NEWS 2001.11

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「同調と対話」

 テレビを見ていたら、ニューヨークのビル倒壊現場に立つ女性が「アメリカはこれだけ世界に貢献しているのに、どうしてわかってもらえないのか」と嘆いていました。たいへん素朴な、そして多くのアメリカ人の思いを語っているのでしょう。一方、緒方貞子前国連難民高等弁務官は「アフガンは世界が見殺しにした国」といっています。「短期的には効果的な軍事行動をとること。きれいごとではない。そしてタリバン後には地域の民族、部族の(協調というより)妥協が必要。アメとムチがないとだめです。カネも技術もいるが、それが私たちの安全にもつながるという意識が必要。私が話し合ってきた人は相当のしたたかものばかり」[1]。上のアメリカ女性もおおかたの日本人も、20年以上にわたり安全を求めてさまようアフガンの人々についてはほとんど何も知らなかった。

 なにか事件が起こるたびに第三者は「話し合いで解決を」といいます。しかし、生い立ち、置かれた条件が違う当事者が、いきなり顔をあわせて話し合い、問題が解決することなどまずないでしょう。せまい諫早湾の干拓をめぐっても地域の利害は対立します。相手の立場を理解し、相手にもメリットのある案を示し、若干の妥協をすることによってはじめて話し合いが成立するのでしょう。主張をするばかりではどちらかが屈服するか、物別れに終わるしかありません。

 対話が大切、コミュニケーションが重要と繰り返しいわれますが、インターネットやケータイなど通信手段は発達したのに、コミュニケーションはかえってむつかしくなっているようです。「ひきこもり」の若者は百万人とも推測されています[2]。「ひきこもり」はコミュニケーションを拒否しているのでしょうか。そうではないようです。「斎藤:「ひきこもり」は、わりと主体モデルは古いんですよ。彼らは身近な対人関係から離れているかわりに、投票によく行ったりとか、社会に対しては俯瞰的に眺めようとする欲求がすごく強いんです。片や渋谷や池袋にたまっている、ひきこもれない若者たちの存在がある。

 この二つを分けるのは、コミュニケーションに対する態度でしょう。「ひきこもり」の若者たちは、コミュニケーションというのは百パーセントつながりあえるものだというイメージを持っている。この理想主義が足伽になるわけです。渋谷・池袋系の若者たちは、誤解でも何でも踏み込んで、ただ会話を回していけばOK、みたいな緩いコミュニケーションのイメージでつながっている。

 ところが、後者の若者たちが元気で支配的かというとそうではなくて、彼らは彼らで一種の村みたいな感じに閉じてしまっている。池袋の若者に聞いたら、「他の土地に行くと疲れる」ということを言う。渋谷に行くと疲れるとか。だから、彼らは逆に俯瞰的な視点を持ち得ていない。けれどもともかく、コミュニケーションは受け入れているのね。「ひきこもり」は社会とつながりたがっている。社会がそれを要請するから」[3]。

 コミュニケーションに対する強迫観念が「ひきこもり」を作り出しているようですが、根底の原因は「自分の未来が見えない」ことといわれます。「ひきこもり」は無気力というより、「つながりたい、役立ちたいが、つながれない」まじめすぎる若者といえそうです。これからの日本を託せるのは渋谷・池袋族ではなく、生まじめでシャイな「ひきこもり」の若者だと筆者は思います。そういえば、夏目漱石もロンドン時代は「ひきこもり」でした。

 どうやれば「ひきこもり」から脱却できるか。いろいろな試みがなされています。まず「わからない」の呪縛からのがれること。今は「わからない」ことが多すぎる時代。そこで逆説的に「わからなくて当たり前」と居直りをすすめるのが橋本治氏です[4]。「20世紀は『わかる』が当然の時代であった。自分がわからなくても、どこかに『正解』はあるはずで、その『正解』を知らないのが恥ずかしい。これは20世紀病だ。しかし21世紀は『わからない』の時代である。わからないは恥ではない」とし、「わからない」からスタートすることを説きます。「わからないことはいっぱいある。その一番わかりやすそうに見えるものから手をつければよい。ただし、なぜやるのかは問わない――『わからない』から」と。

 NPO「ニュースタート」代表の二神さんは「引きこもり解決の三点セット」でこの8年間で500人もの引きこもりの若者の社会復帰を支援してきた、といいます[2]。これはすごいことです。

 「痛感したのは、「引きこもりは病気ではない」という事実であり、病気扱いをされてきた若者たちの心の傷の深さである。診断と薬の後遺症が彼らの社会復帰にブレーキをかけているケースも非常に多い。だが、引きこもりの若者の大半はごく普通のまじめな若者なのである。

 三点セットの第一は、「若者の訪問部隊」である。同世代の普通の若者に訪問させる試みで、最初は訪問拒否が大半であるが、定期的な訪問の繰り返しで半年で九割の若者に会えるようになる。引きこもる彼らも心の奥底では、同世代の普通の若者との交流を切望しているからである。

 二番目は若者の共同生活の揚、「若衆宿」である。引きこもりの若者は人間関係が苦手である。人間関係は「習うより慣れろ」しかない。慣れるには共同生活が近道である。私たちの「若衆宿」では、核家族体験しかない若者たちの成長は速い。

 最後は様々な仕事を学ぶ「仕事体験塾」である。引きこもりの若者は二十代が多く、最終日標は社会的自立である。福祉、情報技術(IT)、教育、自然保護、地域事業など多様な仕事を現場で体験させ、自分にあった仕事を発見させるのである」

 筆者は、ここで二神さんが「普通の若者、普通の発想」を強調しているのが大事なところだと思います。当今、ユニークな個性、鋭い感性ばかりがもてはやされ、普通の若者の行き場がないのが問題です。世の中おおかたは普通の人で構成されています。鋭い人ばかりでは対話は成り立ちません。今のラジオは一発選局ですが、昔はダイヤルをすこしずつ回し耳をすまして音をさぐりながら放送波に合わせました。昔のラジオは同調特性が甘いので、多少ずれていても何とか聞こえたものです。今は損失が小さい(Qが高い)材料、回路によって性能が上がっているため、すこしでも同調位置からずれると全く聞こえません(上図)。鋭い感性の持ち主でも話題・関心の幅の狭い人同士では対話はなかなか成立しない。そしてとかく孤立しがち。波長が合えば盛り上がるでしょうが、そんな相手はめったに現れません(中図)。ピークの高さは普通でも、関心の幅の広い人同士では話題の重なる部分が大きくなり、豊かなコミュニケーションができるでしょう(下図)。

 ノーベル賞を受賞した白川先生と野依先生の対話です。いいデータを出し、いい論文を書くだけでは国際的に評価されない。人と人の結びつきが非常に大切。そのためにはもっといろんな分野、人文や社会科学も、勉強しでおかなくちゃいけない、と。

 銅張積層板は誘電損失(tanδ)が小さいほどよい材料と思われがちです。損失の小さい材料を使えば感度の高い機器が作れます。しかしイトケン先生は材料のtanδが必要以上に小さいとノイズが出やすい。tanδには用途に応じて適正な値がある。損失を小さくすることだけを狙うのは考えものと指摘しています。

 シャープさ、感性を競うのはほどほどにして、関心の幅を広げ豊かな対話を求めたいものです。

[1]「世界が見殺しにした国」(朝日01/10/6)
[2]「増える若者の引きこもり」(日経01/10/13)
[3]東浩紀・斎藤環対談「もう人間はうんざりだ」(中央公論2001/6)
[4]橋本治「わからないという方法」(集英社新書2001/4)




穴にこもるチゴガニとアカテガニ。コミュニケーションが苦手なのかシャイなのか。
しかしこれがカニの普通であって病気ではない。

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