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JPCA NEWS 2006.4

R&Dと情緒

 友人があるとき「ウォークマンをイヤホンで聴きながら散歩している」と言いました。「何を聴いてる?」と訊くと「美空ひばり」という返事。育ちのいい謹厳実直な彼と美空ひばりの取り合わせがおもしろくうれしくなりました。今は亡き友人の奥さんにその話をしたところ、家では美空ひばりを聴いたことも、話題にしたこともなかったとのこと。高尚な家庭の雰囲気が、聴きたい歌謡曲を家で聴くのをためらわせたのでしょう。

 人は場所柄や立場をわきまえずに思ったことをそのまま口にするとひんしゅくを買います。特に政治家や組織のトップは、オフレコと断っても不用意なことをうっかりしゃべるとたちまち外国やライバル、マスコミの餌食にされ、本人が足をとられるだけでなく、国や組織にも甚大な被害を及ぼします。古くは、吉田首相の「ばかやろう」、池田首相の「貧乏人は麦を食え」など、本人の意図しない方向に曲げられて事件にされてしまいました。庶民は飲み屋や床屋で、政治、社会について持論を展開し、かんかんがくがく論じることができても、えらい人が個人的な思いを率直に開陳できるのはリタイアしてからか、時効になってからです。かくして現職のエライさんの発言は慎重でおおむね面白くないのです。

 それに比べ、怖さを知らない門外漢やリタイアした人の歯に衣着せない議論は面白い。 ベストセラー「国家の品格」[1]はそうした本です。著者の藤原正彦氏は数学者ですがエッセイストとしても名が通っています。著者の「天才の栄光と挫折」が面白かったので、上の本も読んでみました。「そうだ、そうだ」と相槌を打ちたくなるところが多いのですが、マスコミの論調とは大分違います。著者が「わが国が品格を取り戻すことは、日本や世界にとって最重要」とする、愛国、憂国の書とも言えるでしょう。こんなことを言って大丈夫かなとも思いますが、ベストセラーになるところを見ると、共鳴する日本人が多いのでしょう。各節に付けられた見出しも刺激的です。「欧米にしてやられた」「欧米は野蛮だった」「数学のレベルも低かった」「先進国はすべて荒廃している」「近代的合理精神の破綻」「共産主義も実力主義も論理の産物」「徹底した実力主義も間違い」「『資本主義の勝利』も幻想」、等々。

 もっとも、著者は、「自分の議論は正しいと信じるが、誰もが同じように考えるとは思っていない。女房に言わせると、半分は誤りと勘違い。残りの半分は誇張と大風呂敷とのこと」と書いています。氏はアメリカ、イギリスでも教鞭を取った国際的な学者ですが、こんなことを書けるのは年齢(1943年生まれ)のせいもあるでしょう。

 普通、日本人は情緒的で、論理に弱いのが弱点といわれます。しかし藤原先生はそれを否定し、「論理だけでは世界は破綻する」といいます。その理由をいくつか挙げていますが、その一つ。「『論理には出発点が必要』ということ。論理を単純化して考えると、まずAがあって、AならばB、BならばC、……という形で、最終的に「Z」という結論にたどり着く。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理。・・・

 ところがこの出発点Aを考えてみると、AからはBに向かって論理という矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印は一つもない。出発点だから当たり前です。すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。宗教的情緒をも含めた広い意味の情緒です。

 情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、どのような先生や友達に出会って来たか、どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、どのような恋愛、失恋、片想いを経験してきたか。どのような悲しい別れに出会ってきたか。こういう諸々のことがすべてあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているわけです。

 出発点を決めるうえで、宗教や慣習からくる形や伝統も無視できません。たとえば武士道精神における、側隠の情とか、卑怯を憎む心とか、名誉や誠実や正義を重んじる心だとか、・・・

 キリスト教やイスラム教にも、それぞれに固有の形がある。いずれにせよ、論理の出発点を選ぶのは論理ではなく、情緒や形なのです。・・・論理は重要であるけれども、出発点を選ぶということは決定的なのです。」とし、最悪なのは「情緒がなくて論理的な人」と断じています。

 そのあと、文化と学問の創造には美しい情緒がもっとも大事と議論を展開し、天才的な数学者岡潔を例に出しています。岡先生は「フランス留学から帰ってから、まず芭蕉の研究に励みました。数学の独創には情緒が必要と考えたのです。その後、やおら研究にとりかかり、二十年ほどかけて、当時彼の分野で世界の三大難問と言われていたものをすべて独力で解決してしまうという快挙を成し遂げました。毎日、数学の研究にとりかかる前に、一時間お経を唱えていたそうです。新聞記者からある時、『情緒というのは何ですか』と訊かれ、岡先生は『野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心』と答えられました。」

 岡先生の「春宵十話[2]」を読みかえしてみました。以下はその一節です。
「・・・中学二年のとき初めて代数を習ったが、この年の三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった。私はいつも一番むずかしそうな問題からとりかかるのだが、この時も最初に最もむずかしいのに取り組んだところ、一学期に解決を習ったのに忘れてしまっていた。それであせった結果、他の問題まで間違えてしまったわけだ。・・・試験がすんで郷里へ帰ったが、この不成績が気にかかってくよくよしていた。ところが、ある朝、庭を見ていると、白っぽくなった土の上に早春の日が当たって春めいた気分があふれていた。これを見ているうちに、すんだことはどうだって構わないと思い直し、ひどくうれしくなった。

 ・・・土の色のあざやかな記憶はもう一つある。中学一年のとき、試験の前夜おそくまで植物の勉強をやり、翌朝起きたところ、気持がさえないでぼんやりとしていた。ところが、寄宿舎の前の花壇が手入れされてきれいになり、土が黒々としてそこに草花がのぞいているのが目に入ると、妙に気持が休まった。日ざしを浴びた土の色には妙に心をひかれてあとに印象が残るようである。」土の色にこんな思いを抱くとは面白い。

 また別の個所で、「中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに『しまった。あそこを間違えた』と気づくのです。そうして、しおしおと家路につくのです。たいていの人はそんな経験がおありでしょう。実は私などそうでない場合のほうが少ないくらいでした。教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。」と書いています。

 エレクトロニクスにおけるR&Dも、文献や統計を調べたり、パソコン相手に論理を積み重ねるだけでなく、ぼんやり外を歩いて、自然や人ごみの中で、天啓を待つことが必要ではないでしょうか。


[1] 藤原正彦「国家の品格」(新潮社2005年)
[2] 岡潔「春宵十話」(毎日新聞社1963年)

「水ぬるむ忍野の春」

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