
JPCA NEWS 2007.10
植物の戦略
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足の向くまま気の向くまま散歩に出かけます。道が分かれて、一方が舗装した道、もう一方が土の道だと、たいてい土の道のほうを歩きます。雑草の茂る小径に出会うと今度はそちらに入る。こうして知らぬ間に緑いっぱいの林の中に入っている。こんな散歩がいい。 泣き止まない乳児を抱いて外に出て緑の中を歩くと不思議に泣き止む。緑ゆたかな田園にあこがれて田舎に移り住む人が増えている。 緑、グリーンのやさしい、安心、安全のイメージはどこから来るのでしょうか。ヒトが何万年前にすみかとしていた森の思い出がそうさせるのか。それとも、動物が命の糧とする母なる緑の大地に抱かれたい思いからか。 一方で、世界的にいま、地方、農村から都会へ、所得の低い国から高い国への人口移動が急激に進行しています。EUに加盟したポーランドでは、加入後、たった2年ほどの間に45万人(人口3800万人の1.2%)もの労働者が英国に渡ったというからおどろきます[1]。流出で生じたポーランドの人手不足は建設部門20万人、コンピュータ技術者1万人、農業従事者1万人、等々。それを補うためにウクライナなどから労働者を受け入れる。あおりを受けたウクライナでは不足を埋めるため隣国や中国からの受け入れを模索しているとか[1]。この激しい人の移動は、5世紀前後にヨーロッパで起きた民族大移動を思わせます。それが要因の一つとなってローマ帝国は滅亡しました。200万人(人口の5%)も流出したポーランドで、よく国土や社会が保たれているものだと感心します。日本でこんなに大規模に人が流出し、外国人が流入してきたら、いまの日本の自然や社会、制度はとても維持できないでしょう。 日本でも地方での高齢化、人口減少がすすみ、大都市との経済格差が広がって、参院選での自民大敗の一因になりました。地方の疲弊は小泉内閣の地方切捨て政策のせいだと批判されていますが、張本人とされる竹中平蔵氏は、「地方の疲弊は、経済がグローバル化し、また知識集約社会に移行したために、地方の産業・企業が競争力を失ったから。不良債権処理を行わず、郵政民営化を決めていなかったら、地方は疲弊しなかったのか」と反論しています[2]。そして、地方経済の疲弊はあくまで「グローバル化の影」であって、それを解決できる「打ち出の小づち」などはないといいます。実際、民主党の農業政策「個別所得補償制度」(生産費と市場価格との間に差額が生じたら不足分を全農家に直接支払う)などはまず無理でしょう。それが可能なら低価格に悩むプリント板業界にも適用してもらいたい。 竹中氏は地方活性化に向けてやるべきことの第一に「農業の強化」を挙げています。一般には、地方には大企業が少なく製造業の蓄積が乏しい結果、グローバル化の波に乗り遅れたとされます。短期的にはその通りでしょう。現に、有力企業が立地する自治体は元気で、夕張など衰退産業のある(あった)自治体は苦境にあえいでいます。では、地方が活性化する道は全国津々浦々に大企業の工場を作るしかないのか。そこで何を作り、どこに売るのかと筆者は疑問に思っていました。 竹中氏が「農業は基幹産業。その活性化なくして地方の活性化はありえない。」としているのに共感します。ただし、具体的にあげているのは「一層の競争政策を進め、農地法の改正、農協政策を含むような構造改革を推進すること」で「打ち出の小づち」にはほど遠い。 「植物の生存戦略 『じっとしているという知恵』に学ぶ」[3]という本をタイトルに引かれて読みました。学術的な内容ながら示唆されるところも多い。 まず、動物は植物なしでは生きていけないということ。「植物は葉緑素をもち、太陽のエネルギーによって、空気中の二酸化炭素と水から、生きて行くためのエネルギー源となる糖を合成することができる。・・・一方、動物は、自前でエネルギー源となる物質を作り出すことができない。ほかの動植物を食べて栄養を摂取するため、動き回って餌となる生き物を探す必要があるのである。」生物はすべて太陽のエネルギーによって生かされていることは誰でも知っている。しかし、動物は植物を経由しなげれば太陽エネルギーを利用できないのです。経済規模がいくら大きくなっても植物の産出量を超えることはできないはずです。山を崩し、田んぼを埋め立てて工場を作っても、山や田んぼが全くなくなったら、工場は維持できなくなり、人類は滅びます。 「動物も植物も細胞からできていますが、そのつくりや性質は大きく異なります。 寿命はスギの1000年以上に対し、クジラやカメでもせいぜい100〜150年。植物はざっと10倍生きる。 植物細胞の大きさは動物の約5倍で、細胞壁に守られた丈夫なつくり。 どちらも1つの受精卵からはじまる。細胞分裂して「組織」を作り、組織が集まって1つの機能を果たす「器官」を形成する。 動物には、脳、目、肺、胃、筋肉など多くの器官があるが、植物には、茎、葉、根の3つしかない。器官の種類は動物が圧倒的に多く、植物はきわめて少ない。」 動物は、胚の各部分に「お前は何になれ」という指令が出され、それに従って細胞が分化し、正確な位置に適切な器官ができてくる。体の構造は胚の段階でほとんど完成されている。赤ちゃんが大人になるまでに、体に新しく加わる器官はない。胚の段階でつくられた体は、そのままの構造でサイズだけが大きくなる。動物には判断のための器官(神経)があり、それが集中した脳をもつことで、全身を1つの調和をもった動きで統御できる。 植物の場合、種子の中では、「芽生え」の原型しかできていない。そして、発芽してからその植物が一生を終えるまで、ずっと一定の体づくりを繰り返していく。植物の発生は一生つづく。 動物では、生殖細胞は発生の非常に早い段階で、『特別な細胞』として保管される。そして、必要なときに生殖器官に移動して卵や精子に分化する。そのため、個体が死ねば、生殖細胞も一緒に死に、生殖細胞が死ぬと、個体が生きていても子孫はつくれない。遺伝子はそこで途絶えてしまう。 一方、植物は生殖細胞を、必要に応じてそのつど、花の中につくることができる。動物と比べると、植物における生殖細胞の作られ方は、とてもいい加減。その反面、植物は花をつけた枝が折れても、母体に咲いている残りの花の生殖機能が失われることはない。」 以上、動物と植物の違いについて見てきたのは、大都市と地方、自由に動ける人たちと住む場所を変えられない人たちではとるべき生存戦略が異なるのではないかと思うからです。片や動物の戦略、もう片方は植物の戦略が必要なのではないか。 地方から東京への移動は明治時代からありました。しかし、当時上京した人たちは、夢を追い、成功の新天地を求めて田舎を出る一旗組と、田畠を相続できない次男坊、三男坊たちでした。高度成長期には中卒の金の卵が集団就職列車でつぎつぎ上野に着いた。 この人たちが出て行っても村の暮らしにさほどの変化はありませんでした。残った人たちで山は守られ、先祖伝来の田畠は耕されていました。村の祭りも昔ながらにつづけられた。 しかし今、農業も林業も支える人は激減し、高齢化しました。山も田んぼも荒れ、地方の町はさびれてきました。都市化は逆らえない時代の流れです。堺屋太一氏は都市の方が効率がよい。人口減少時代に国全体にまんべんなく福祉、公共サービスを行き渡らせることは無理、といいます。しかし国民全部が大都市に住むようになり、山も田畠も荒れ果ててしまってそもそも社会は成り立つものか。 農林業に従事する人口が減るのはよいとして、山と田んぼ、そして小さい村や町は生き残ってほしい。衰退産業を守るためではなく、都市が生き残り、機能していくために。ただし、アメリカインディアンやオーストラリア先住民の保護のように、隔離してお金で生かすような形ではなく、都市と自由に交流(競争)しながら、経済的にも自立できる形でなければなりません。 「1個1個の細胞は丈夫で組織は簡単。役割は必要に応じて交替できる。自立分散。体のどこからでも花が咲かせられる。そして死ぬまで生長をつづける。」という植物の生き方は自由に動き回ることのできない人たちにとっても有力な生存戦略になるのではないでしょうか。 |
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| この子が大きくなったとき、その赤ん坊を乳母車に乗せ、変わらぬ自然の中を歩いてほしい。 | ||||||
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