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JPCA NEWS 2008.3

ミラーニューロン

 JPCAショーなど、どのショーに行ってもため息が出るくらい展示場が広い。各ブースでは、展示に工夫を凝らして訪問者を待ちます。どのブースもじっくり見たり、説明を聞くとそれぞれにおもしろい。ものづくり最前線でのR&Dの現状や担当者の熱意に感動を覚えます。日本のものづくりはまだまだ大丈夫だと思ってしまうのです。

 しかしブースの数があまりに多い。顔なじみのいるブースに入ると話し込んでしまう。最初のうちていねいに見ていても、時間がなくなり疲れてくると、おおかたのブースは横目にとばして、目に付いたブースだけに立ち寄ることになります。筆者の場合、寄ってみる気になるのは、予定していたブースは別にして、@実演、Aプレゼン、B現物、Cビデオ映像、Dパネルの順になるでしょうか。景品をくれたりすると、熱意にほだされて話を聞くこともあります。アンケートを書かされるのは苦手ですが。パネルや映像には貴重な情報がいっぱい詰まっているはずなのに素通りすることが多い。人だかりしているブースではたいていモノが動く実演か、きれいなコンパニオンによるプレゼンをやっています。

 名所、旧跡のもよりの駅の改札出口では、名所、名産の由来や見所のビデオ映像を流しています。きれいな映像が写っているのに、その前に立ち止まる人はあまりいない。何か物足りないのですが、それが何だかよくわかりません。散歩の途中、子どものサッカークラブの試合やおじさんたちの草野球に出会うと、しばらく立ち止まって見ています。どれも大画面テレビで見るプロのゲームとは違ったおもしろさがあって、なかなかその場を離れがたい。テレビで見るグルメ料理にはそれほど食欲をそそられないが、レストランでは隣のテーブルの皿がうまそうに見える。映像をいくら大画面に、高精細に、ほんものそっくりに映しても、映像は本物とは截然と別世界です。家ではテレビなしの生活は考えられないようでも、外に出るとどうしてこうも映像の存在感が薄れるのか不思議です。

 インターネットもケータイもメディアもそれぞれすごい進歩を続け、世界中を結んでいます。無限のひろがりがあります。これらにつながってさえおれば全て事足りると錯覚しそうになりますが、そう思えるのはどうやら家の中だけ。外(自然の中)に出ると、インターネットもワンセグも色あせて見える(ディスプレイの明るさのせいだけでなく)。インターネットの世界は無限ですが、自然はもっと密度の濃い無限の世界です。有理数(分数で表せる数字)の無限の多さと、無理数(円周率や平方根を含めた数字)の無限の多さの違いに比べられるでしょうか。無理数の無限は、有理数の無限に比べて桁違いに大きいのです。

 筆者がいまさらこんなことを持ち出すのは、電子機器の製品開発がいつまでもテレビの大型、薄型、高精細化だけでは心もとないと思うからです。また、若者が対話を避けて顔の見えないメル友との友情を確かめ合うのや、子どもが体を動かさず、テキストと問題集だけで勉強するのも気になります。

 「目は口ほどにものを言い」や「去るものは日々に疎し(Out of sight, out of mind)」は誰でも納得することわざです。人が梅干を食べるのを横で見ていると、思わずつばが出てくる。こんなことが、最近の脳の研究からが物理的に実証されつつあります。

 「サルが皿の上の干しぶどうをつかむと、脳の手と口の動作にかかわっているF5野という領域のニューロンが顕著に活性化した。」ここまでは以前から知られていた事実です。おどろくべきことは「サルのこの部位のニューロンが、実験スタッフが干しぶどうをつかむのをサルが観察している時にも強く反応した」ことでした。10年前、「ミラーニューロン」が発見された瞬間です[1]。サルの頭の中では実験スタッフと同じ行為が行われているのです。サルが食べ物を口に運ぶ場合と、容器に入れる場合でミラーニューロンの活性化パターンは異なるのですが、実験者が食べ物を口に運ぶときと、容器に入れるときも、それを見ているサルのミラーニューロンは自分でやる場合と同じパターンで活動するそうです。サルは相手の動作を、分析、解釈することによって理解するのではなく、脳の中で相手と同じ動作をすることによって瞬時に理解するのです。脳は相手の行動を真似るだけでなく、相手の行動の「意図」まで読み取るといいます。

 「人間が他者の感情を理解する方法は・・・1つではないはず。ある感情を感じている他人を見ると、その知覚情報が脳の中で認知的に精緻化されて、その人が何を感じているかの論理的判断にたどり着くのだろう。だが一方では,その知覚情報が脳の運動野で直接変換され、観察者にもその感情が生じるのかもしれない。最初の方法では観察者はその感情を論理的に推測するが、自ら感じることはない。2つ目の方法ではミラーメカニズムによって観察者も同じ感情を覚えるため,その認識は直接的だ。『君の痛みを感じるよ』は・・・本当に痛みを感じでいるかもしれないのだ。[1]」。

 ヒトが何かを理解するには2つの回路があって、ひとつは論理の回路、もう一つはミラーメカニズムによる回路のようです。そして多分、テレビやインターネット、ケータイでは論理の回路は十分つながっても、ミラーメカニズムは働きにくいのでしょう。電話して、相手が留守のとき、「メッセージを入れてください」と機械に言われてもしゃべりにくいように。

 「KY」が2007年の流行語と聞いても、筆者にはなんのことやらわかりませんでした。「空気を読め」の略で、元は若い女の子同士のメール用語だったのが、マスコミ全体に広がったそうです。しかし「空気を読め」とは嫌な言葉です。日本人がその場の空気に支配されやすいことは確かです。世論はその場の空気に左右されて大きくゆれる。それをマスコミは煽り立てて商売のネタにします。もっともこれは日本に限った傾向でなく、どの国でも世論は揺れやすく、マスコミ、インターネットで増幅されやすいものです。責任ある政治家の決定もそのとき、その場の空気に左右されます。ベトナム戦争を指揮した米マクナマラ元国防長官ですら後日、「自分は賛成でなかったが、その場の空気で逆らえなかった」という意味のことを言っているのにおどろきました。それにしても「空気を読め」とは何事か、「空気に流されろ」というのか、と怒りたくなります。本来ミラーメカニズムが働きにくいメールのやりとりで空気を読むということ自体に無理があるのでしょう。

 空気を読むこと自体はミラーメカニズムを働かせる意味で大事な機能です。「他者の心中を察したり、相手に共感するといった対人的なやりとりにミラー二ューロンシステムが関連しているらしい。自閉症のおもな症状のうちいくつかは,このシステムの機能障害によって説明できる[2]」。

 家族のあり方について山田太一さんは言っています。「・・・『親バカになれるのは親だけ』との言葉もあるくらいだから、子どもには愛情を注ぐべきだろう。ただ、やり過ぎてしまう点が問題なのだ。社会と距離を置いた「閉じた家族」で育てられた子どもは抵抗力が弱く、摩擦の多い社会では生きづらい・・・子どもにとっては親がすべて。結局は親が子どもにまねされても良いような生き方をするしかないのだろう。一緒に暮らしているだけで十分に教育であって、それ以上を求めたら子どもはゆがんでしまう恐れがある。自分にできないことはもちろん、自分にできることであっても、親は子どもに求めてはいけない場合もある[3]。」。

 山田さんは、家庭でできるのは親の背中による教育だけかもしれない、というのです。理科の教育でも、ものづくりの継承でも、理屈で説得するだけではダメで、大事なのは体と態度で教え、ついてこさせることのできるオヤジ、先輩ではないでしょうか。スポーツと同じように。そしてどんな教育もミラー二ューロンの回路が働かなければ成果が上がらず、有名な山本五十六の言葉「やってみせ,言ってきかせて,させてみせ,ほめてやらねば,人は動かじ。」は今も変わらぬ真理だと思います。


[1] G.リゾラッティ、他「他人を映す脳の鏡」(日経サイエンス2007/2)
[2] V.S.ラマチャンドラン、他「自閉症の原因に迫る」(日経サイエンス2007/2)
[3] 山田太一「他者への共感忘れずに」(朝日08/2/13)

イヌの水浴び。飼い主もミラーニューロンで水を浴びている表情。

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